新陳代謝

幼い頃から、僕は映画とドラマに囲まれて幼い頃から、僕は映画とドラマに囲まれて育ってきた。映画館にも行くし、家では金曜ロードショーを家族で観るのが当たり前だった。でも、今でも一番記憶に残っているのは、レンタルビデオ屋で借りたDVDだ。

地元にはTSUTAYAがあった。外食の帰りや、買い物の帰り、少年野球の試合のあと。週末になると家族で立ち寄り、好きな作品を500円以内で借りるのが小さな楽しみだった。無骨な棚に所狭しと並んだCDやDVD。あの空間は、当時の僕にとってまるで宝箱のようだった。人気作はいつも貸し出し中で、返却されていないかチェックしに次の日も足を運んだ。棚のあいだから覗くパッケージの並び、レジ前のカードゲームコーナー、店内に流れるBGM。全部が思い出に焼きついている。

けれど、時代が進むにつれて、少しずつあの場所から足が遠のいた。中学生、高校生になり、帰り道に寄っていた店を素通りするようになった。観たい映画はスマホで検索すればすぐに出てくるし、ボタンひとつで再生できる。わざわざレンタルする必要もない。気づけば、あの店の存在を「そこにあるのが当たり前」から「もう行かない場所」へと変えていた。
それでも、あの頃は間違いなく自分の生活の一部だった。

そんなTSUTAYAが昨年、閉店した。
在庫処分のセールがあると聞いて、久しぶりに足を踏み入れた店内は、思っていたよりも静かだった。照明の少し落ちた通路に、見覚えのあるパッケージが並んでいて、急に胸の奥がざわついた。サブスクではもう配信されていないような作品や、昔よく観た映画のタイトルを眺めているうちに、閉店を惜しむ気持ちが込み上げてきた。迷った末に、何度も借りて観た『ウォーターボーイズ』のDVD全巻とサントラ、それにサザンのCDをまとめて買った。袋を手に持ったとき、あの頃の自分が少し戻ってきたような気がした。

人生はこうして、少しずつ何かが失われていく。そのたびに、人はようやく気づくのだと思う。自分にとって大切な場所や時間が、どれほど支えになっていたかを。店も、人も、景色も、永遠ではない。古いものは形を変え、時に姿を消し、新しいものに置き換わっていく。あのTSUTAYAの跡地には今、Seriaが入っていて、以前と変わらないくらい多くの人で賑わっている。それを見て寂しさを覚える一方で、「これも時代の流れなのか」とどこか納得している自分もいた。

自由が丘の不二家書店はI’m donut?に変わり、神保町のmagnifも今年いっぱいで閉店すると聞いた。気づけば、自分にとっての「当たり前」が次々と姿を変えていく。自分の無力さを思い知らされる瞬間だ。でも、それは単なる喪失ではない。そこにあった時間や記憶は、確かに自分の中に残っていて、今の自分を形づくっている。

映画を観る手段はいくらでも増えた。家でもスマホでも、いつでも観られる。それでも僕は、映画館で観ることを大切にしている。あの大きなスクリーンの前に座り、見知らぬ人たちと同じ時間を共有すること。それはただの娯楽ではなく、自分の中に残る「体験」になる。音の響き方、光の強さ、観客の反応――そういうすべてが作品の一部になって、自分の記憶に刻まれる。そして、それが制作者への敬意にもつながる。彼らが心を込めて作ったものを、ちゃんと受け取るということ。

デジタルの社会になっても、僕はそういう手触りのある体験を大切にしたい。
時代が移り変わることを止めることはできない。だけど、その中で何を大事にして生きるかは自分で選べる。失われたものを惜しみながらも、新しく生まれたものを受け入れていく。

きっと、それこそが人の生き方そのものであり、「新陳代謝」と呼べるものなのだと思う。

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